s*m=sheep;


知らん顔

戸が開く不吉な音。
空を切るかのように闊歩する黒一色の影。
そして、はらはらと波打つマントを翻し教壇に立つなんとも陰気臭い男、セブルス・スネイプ。
教室が一斉に静まり返った。
こうして今日も、レイブンクローとハッフルパフの魔法薬学の合同授業が始まった。


「今日の課題は『安らぎの水薬』、不安を鎮め、動揺を和らげる」


スネイプは、淡々と説明を続ける。
当然、レイブンクローの学生は羊皮紙に羽根ペンを走らせ、聞き洩らすことのないよう皆、表情は真剣そのものだ。
それに続くように、ハッフルパフの生徒も慌てて羽根ペンを握る。
そんな中、教授の説明を熱心に聴いている生徒がひとり。
確かに、聴いている。聴いているのだ。
しかし、彼女は勤勉な者が集うはずのレイブンクロー所属であるにもかかわらず、耳を傾けつつメモを取るわけでもなく、ましてや慌てる様子もない。
ただ、スネイプをまっすぐに見つめ、彼の話を熱心に聴いているだけなのだ。
周りの者が、俯いてノートを取っているのに、ひとり顔を上げ、しかも微動だにしない。
さすがのスネイプも、彼女の態度を不審に思ったのか、目を細めた。
何しろ、これが初めてではないのだ。


「さて、ミス・。そのようにわたしの説明をメモも取らずにいたなら安らぎの水薬の効果と注意事項は既に頭に入っているのだろうな」


教壇からスネイプに見据えられたは、びくっと肩を揺らし、目を見開いた。
閉じられた教科書に真っ白な羊皮紙。
インク瓶の蓋さえ開いていない。
の頭の中に昨夜予習した教科書の内容が洪水の様に溢れだし、その中から目的のものを必死で探しだした。


「……『安らぎの水薬』は、不安や動揺を和らげ……、注意すべきことは……成分が強いと飲んだ者は一生目覚めないこと、です」


文章になってない答えだったが間違えではないので、スネイプは眉間の皺を深めて「左様」と呟いただけで授業を進めた。
突然のことにどくどくと脈打つ心臓を落ち着かせるべく、は胸に手を当てる。
「安らぎの水薬」が必要なのはまさに自分のことであった。
スネイプに気付かれ注意されてしまっては、もうこの授業では迂闊に見つめることはできない。
小さく溜息をつき、仕方なく教科書の該当ページを開いて目で追っていると、誰かがそっと肩を叩いた。


、もうみんな調合の準備してるよ」

「あ…ルーナ、ありがとう」


教科書から顔を上げてお礼を言うと、ルーナはうれしそうににっこり笑って自分の作業に取り掛かった。
彼女の生物と薬学の才能は甚だしいものだった。
同じ寮生までもが彼女を変人扱いしているが、は違う。
行動を共にしているうちに様々な面を発見することができて、今では尊敬することが度々ある程だ。
それに比べて自分はどうだろう。
成績は悪くなかったがこの寮にいる限りでは中の上程度で、かつ彼女のような得意分野というものがない。
かといってクィディッチが得意という訳でもないし、監督生になるほど抜群の頭脳を持ち合わせているわけでもなかった。
そんなことを憂いつつ薬棚から材料を取り出し、鍋や火の準備をする。
スネイプの視線が自分を捉えていたことなんて、は気付きもしなかった。


「一体、何の調合してンの?」


ルーナの呼び掛けに、はハッとした。
そして、自分の体から血の気が引いて行くのがわかった。
隣の鍋からは軽い銀色の湯気が立ち上っている。
目の前のそれからは、どちらかというと暗い灰色に近い煙が上り、鍋の中で薬品がぼこぼこと物凄い勢いで沸騰してた。
どうやら火の温度を下げるのを忘れていたようだった。


「しまった……!」


むせ返るような地下牢教室で涼しげな表情のルーナを余所に、は慌てて火の温度を下げた。
しかし、時すでに遅く、水分の足りなくなった鍋の中身はどろどろになっており、水薬どころではなかった。


「授業態度といい、この有様といい、知性とはかけ離れたものですな」


鍋の間を縫い、コツコツという足音と共にスネイプがやって来た。
教室には濃度の差こそあれ、銀色の湯気が充満している。
このような酷い結果になったのはだけだ。


「レイブンクロー、10点減点。授業後は残りなさい。罰則だ」


スネイプは杖を振って彼女の失敗した薬を消すと、他の生徒に成果物を提出するように告げ、授業を終えた。
ハッフルパフの生徒は憐れみの視線を、レイブンクローの生徒は軽蔑するような冷たい視線をに向けて教室から出て行った。


「夕食に間に合わなかったら、後で一緒に厨房に行こ。待ってるよ」

「ルーナ……」

「そンな顔してないで、自信持ちなよ。またスネイプに何か言われたらあたしが『あんたには勿体ないくらいは努力家でやさしいンだ』って言い返してやる」


ルーナの発言に驚いては口をあんぐりさせた。
まさか、彼女に自分の淡い想いが筒抜けだったなんて。
は思いもよらない真実の発覚に言葉を失っていた。
一方、ルーナは得意げに微笑むと、荷物を引っ掴んでさっさと教室から出て行ってしまった。
残ったのは、空っぽの鍋と、机に出しっぱなしの教科書や使ってもいない文房具だけだった。




「は、はい!」


突然、スネイプが戻ってきたので、授業中と同じようには驚いて体を強張らせた。
ルーナとの会話を聞かれてなんていたら、とんでもない。


「罰則は鍋磨きだ。魔法は一切禁止。わかったな」

「はい……」


素直に返事をすると、スネイプはまた研究室の方へ戻って行った。
は肩を落とし水道場に向かうと、山積みになった薬品のこびり付いた鍋を手に取った。
タワシを使って力を込めてごしごしと擦る。
何度も同じ作業をしているうちに、虚しさで胸が苦しくなった。

成績で目立ちもしない。
しかも、憧れの先生の授業で罰則を受ける程の失敗をして。
授業中はどうしても先生を見つめることに意識がいってしまう。
この授業くらいでしか見つめることができないから。
頭の良いレイブンクローの生徒に埋もれ、グリフィンドールの生徒ように毛嫌いされるほど目に止まるわけでもなく、スリザリンの生徒のように贔屓されるわけでもない。
ルーナの言うように自分が努力家でやさしいのならハッフルパフへ入るべきだったのだろうか。
いやいや、何を自惚れているんだ。
こんな自分が、心優しいわけがない。
むしろ、友の悲しみにそっと寄り添えるルーナの方が自分なんかより心優しいのは明らかだ。

そんなことをぐるぐると考えていたら、いつの間にか鍋は全て磨き終わっていた。
鍋を水で流し、傍にあった厚手の雑巾で拭いていると、磨いたはずなのに落ちずに残っている汚れを見つけてしまった。
でも目に留まったのだから、あの教授が見逃すはずがない。
しかし、もう一度タワシで強く擦ってみても一向に剥がれない。
何だか自分の悪い部分を見ているみたいで悔しくなった。
それから肩で息をするほど汚れと格闘し続けたものの、タワシの方がへたってしまった。
どうしても汚れを落としたいのと、鍋磨きもろくにできない自分に嫌気がさし、はスネイプの「魔法は一切禁止」の言葉を都合良く忘れてポケットから杖を取り出した。
そして、今にも泣きそうな顔で杖を構えた。


「スコージ」
「魔法は禁止と告げたはずだが」


頭の上から、地を這うような低い低い声が降ってきた。
そして、それと同時に杖を持った右手は掴まれ、魔法を唱えようとした口は彼の左手によって塞がれた。
の背筋が凍る。
心臓は早鐘のように打ち鳴り、血液が全身を駆け巡った。


「いい加減、わたしの授業で馬鹿げたことをするのはやめたまえ」

「……」

「毎回こちらを見続け、メモすら取らない君にわたしが気付いていないとでも?」

「……!」


どうして。どうしよう。
見つめていたことに気付かれていたなんて。
なんて言い訳すれば納得してもらえるだろう。

触れられたところから伝わる体温と、薬品の混じり合った独特の香りに、は目眩がしそうだった。
この状態が続けば、鼓動の速さに気付かれるのも時間の問題だろう。


「ほう。この不利な状況に置いて言い訳を考えるとはなかなかの余裕の持ち主だな」

「……!」


平凡な自分。
失敗続きの授業。
届かない想い。
挽回の余地のなさ。
読まれている、心。

の瞳から、遂に堪えていたものが溢れだした。
それは頬を伝い、口を覆うスネイプの掌にも流れ落ちて行った。
それは、留まる事を知らず、堰を切ったように溢れ続けた。
スネイプは、予想していなかった事態に息を飲んだ。
慌てて手を離すと、強引に自分の方を向かせ、彼女と同じ目線になるように腰を屈めた。
授業中と同じようにまっすぐに見つめる
ただ違うのは、その瞳からぽろぽろと涙が零れていること。


「せん、せい…いつから…」


言葉を口にしたに、スネイプは安堵の溜息を洩らす。


「はじめからだ。敢えて言うなら、去年、君が解毒剤の種類について質問に来てからだ」

「……」


のぱっちりした瞳が余計大きくなった。
期待以上の答えに驚き、やっと涙が止まった。
残る涙の跡を、スネイプの骨ばった指がやさしく拭う。


「わたしの気持ち……知っていたんですか……」

「はて、何のことやら」


不安そうな表情が、みるみる紅色に染まる。
スネイプのその言い方は、火を見るより明らかだ。


「しかし、最近、君が何か思い悩んでいたことは知っている」

「……」

「鍋磨きはもう良い。落ち着くまでゆっくりしていきなさい」

「え、でも」

、時には誰かに甘えることも必要だ。人の気持ちを考えて行動することだけがやさしさではない。助けを求め、信頼することも大切なことだとは思わんかね」

「スネイプ先生…」

「それにどんなこともそつなくこなす君は、将来、重宝されるだろう」


教師らしく、にそう言うと、スネイプは滅多に見せない笑みを浮かべた。
それにが赤面したのは言うまでもない。

こうしてふたりは鍋を片づけると、スネイプの自室へ向かい、夕食までのひと時を共に過ごすことになった。

これからは授業に集中しよう。
質問に行けば、きっと先生はあのときみたいにわかるまで何でも教えてくれるから。