城を思わせる屋敷に響き渡る悲痛な叫び声。
それは、まだ年端の行かぬ少女のもののように聞こえる。
一体、何が起こっているのか、広い庭越しの外からはわかるはずもなかった。
「ドラコ、さっさと捕まえな」
邪悪な笑みを浮かべた女が、プラチナブロンドの青年に言い放った。
額にじっとりと汗を浮かべ、蒼白な顔の青年―ドラコは、今しがた開け放たれた重厚な扉の向こうをじっと見つめている。
「なんだ、いくら同級生だからって怖気づいてるんじゃないだろうね。あたしは別の仕事があるんだ。今すぐ捕まえて地下牢にぶち込んできな」
躊躇しているようにも見えたが、女の声に弾かれたように立ちあがると、彼は重い扉を開けて走り出した。
目標は、逃げ出した・の捕獲。
彼と同学年であり、ハリーと近い人間でもある。
捕えられた理由はただそれだけ。
有力な情報に辿りつけない闇陣営の幹部は、何か聞き出せることはないかと、彼女を無理やり学校からこの屋敷へと連れ出すことにしたのだった。
しかし、生徒である彼女を軽く見ていたのか見張りが薄く、その結果、監視下から逃れられてしまったという訳だ。
陣営の本部とはいえ、集まりを除くと出入りが激しく、現在はほぼ出払っている。
そのような状況の下、の逃走が始まったのだ。
杖を奪われたに身を守る術はない。
縛られていた腕には内出血の痕が見られ、抵抗した際に殴られた頬は腫れていた。
それでも何とか逃げられないかと、彼女は広すぎる屋敷の廊下を走り、出口になるような場所を探していた。
しかし、真っ直ぐな廊下は果てしなく続いているような錯覚を起こさせ、を絶望に追いやった。
喉が切れそうな程、空気を吸い続け、それでも走り続ける。
くらくらする頭で何とか足を前へと進め、どこか他の階に行ける階段はないかと探していた。
自分の息遣いだけが聞こえるそこで、はあることに気付いた。
先ほどよりも、廊下に連なる部屋の間隔が広くなっている。
そして、いつしか他のドアよりも一層豪華な造りのドアに辿りついた。
これだけの造りならば、部屋に暖炉があるかもしれない。
彼女はドアに耳を当て、中の様子を伺った。
人の気配はないようで、物音も聞こえなかった。
ここで休んでいる暇はない。
思い切って取っ手を握り押してみた。
ドアが開いた途端、部屋に明かりが灯り家具や内装をきらきらと照らす。
この不穏な時代には不釣り合いな照明の中、は目を凝らして部屋の中を見渡した。
寝室を尻目に、部屋の奥まで進むと、案の定、暖炉はあった。
しかし、肝心の煙突飛行粉が見当たらない。
はズキズキと痛む靴下だけの足を引きずり、目当ての物を必死になって探した。
もし、ここで飛行粉が見つかれば学校に戻れるかもしれないからだ。
デスクの上や引き出しの中、本棚など、目につくところは粗方探したつもりだ。
しかし、目当ての物は中々見つからない。
いつ見つかるかわからない状況で、は焦りを感じない訳にはいかなかった。
ふと、カーテンの隙間から屋敷の外が目に入る。
空には相変わらず黒い雲が立ち込めていたが、このずっと向こうまで行けばやがて学校に着くはずだ。
は、平穏だった頃の学校生活が酷く昔のことのように思え、胸が痛んだ。
あの時の思い出が全て嘘のように感じられ、表情を歪ませる。
けれど、今ここで立ち止まっているわけにはいかない。
どうせまた捕まるなら、もっと逃げてからにしよう。
痣とかすり傷だらけの腕で、目をゴシゴシと擦ると、彼女はもう一度、煙突飛行粉を探し始めた。
「君が探しているのはこれかね?」
囁くようなその声に、は慌てて振り向いた。
そこに立っていたのは、以前では考えられないくらい窶れ、の乱れた髪と同じくらいボサボサな頭をした、この屋敷の当主、ルシウスだった。
きらきらと光る粉の入った小瓶を持つ彼もまた杖を失っており、見たところ丸腰のようだった。
「よくもまあ、わたしの部屋を荒らしてくれたな」
そう言って彼女に一歩ずつ近づく彼の目は虚ろで、精気がなかった。
自身の没落が彼を今の姿にしたのだろう。
に緊張が走る。
猶予はない。
拳を握り、息を大きく吸うと、ルシウス目がけて飛びかかった。
「自ら飛び込んでくるなど、愚かな奴だ」
狂気に満ちた彼の瞳にうっすらと光が差し、彼女の行動を予想していたかのように不自然に口角を上げる。
胸元に小瓶をしまうと、痕が残るの腕をいとも簡単に掴みあげた。
「は、なせ!」
判断を誤ったつもりではなかったが、後悔しても遅かった。
大人の男と未成年では、杖なしでも力の差は明らかだったのだ。
そのまま、床に押し倒され、身動きが取れなくなる。
馬乗りになってルシウスに見降ろされ、は屈辱感と苦痛で顔をしかめた。
「それで抵抗しているつもりか?」
彼は挑発するように、空いていた片手で小瓶を取り出し、の目の前に差し出した。
薄ら笑いを浮かべるルシウスに、嫌でも息子の顔が思い出される。
「父上……?」
自分がそんなことを考えていたからか、遂にはこの場にドラコまで追いつかれてしまった。
状況がさらに悪化するのは、もう時間の問題だろう。
は半ば諦めていた。
しかし、予想していなかったドラコの到着に、ルシウスは動揺したらしい。
に掛かる重みが軽減したのだ。
それを彼女は見逃さなかった。
「ぐ……」
彼がドラコに気を取られているのを見計らって、めちゃくちゃな暴れ方をして所構わず拳で彼を叩いた。
その拍子に、彼の手から小瓶が落ち、床を転がった。
怯んだルシウスの下から素早く抜け出すと、その小瓶を追った。
咳き込むルシウスの横で、は煙突飛行粉を手に入れた。
しかし、その油断が、今度はの隙となってしまった。
「レダクト!」
呪文が唱えられた途端、彼女の手の中の小瓶は粉々に割れ、中の粉が飛散した。
それと共に、の希望も打ち砕かれた。
「マルフォイ……!」
散り散りになった粉に唖然となっていたが、絶望により、彼女の顔はドラコに劣らず蒼白だった。
肩を振るわせ、突き刺すような視線で彼を睨む。
その剣幕にドラコは息を飲んだが、反射的に杖を振っていた。
「おまえを逃がす訳にはいかない。クルーシオ!」
その呪文が耳に入ってきた時、は目を見開いた。
そして、間も無く全身を耐えがたい痛みが襲った。
闇の帝王によるそれとは到底、比べ物にならないだろう。
しかし、体力を消耗している彼女にとっては、ドラコの磔の呪いは相当な苦痛となった。
身体に血液が巡るように、言い表せない痛みが染みわたる。
内臓を抉られるような、針で刺されるような、息ができなくなるような、そんな例えようのない混沌とした苦痛を受けた。
身動きがとれず、痛みに耐えるしかなく、解放されたい一心で悲鳴を上げた。
その悲痛な叫び声に、ドラコは自分の放った呪文の恐ろしい威力に気がついた。
そして我に返ると、呪文の効果が薄れ、悲鳴の治まったは息も絶え絶えに喘ぎ苦しんでいた。
呪文の恐ろしさに恐怖を感じたが、それと同時に、目の前で成す術もなく痛みに耐える少女の姿にただならぬ興奮を覚えたことにも気づいてしまった。
背中を伝う嫌な汗になのか、それとも、許されざる呪文を唱えた自分になのか、定かではないが、ドラコはゾクリと身体を震わせた。
そして、あろうことか、の悶え苦しむ姿をもう一度見るために呪文を放ったのだった。
そんな息子の様子を見て放心状態のルシウス。
すっかり脱力してしまった。
一方、ドラコは、のたうつの様子をギラギラとした目で穴が開くほど見つめていた。
は懇願すらしないものの、解放を求めて叫び、苦しみに狂いそうだった。
「一体、何の騒ぎだ」
無秩序な一室の空気が、突如張りつめた。
そこには黒衣に身を包み彼らを見下ろす現魔法学校校長、セブルス・スネイプの姿があった。
彼の目が最初に捉えたのは、見慣れた我が校の制服だった。
許可を下した記憶はないとか、何故こんなところに生徒が、などと悠長なことを考えている場合ではない。
やっと苦痛から解放されたものの、こちらが誰であるかの認識すらできない虚ろな状態の生徒がであることに咄嗟に気がついたセブルスは、すぐさま彼女に駆け寄った。
表情は一切崩さなかったが、彼の手はの状態を把握するべく忙しく動いていた。
「大体の状況の把握はできた。わたしはこの生徒を連れて一度学校へ戻る。後始末は誰かしらに頼むとしよう」
ここで何か言っても仕方ないと判断したのか、セブルスは衰頽しきったふたりを置いて、屋敷から姿を消した。
校長室に到着すると、最初に自室のベッドを整え、すぐにを横にならせた。
セブルスのただならぬ気配に気づいたのか、その様子を額縁のダンブルドアが心配そうに見つめていた。
焦点の合わない瞳に自分が映るよう、セブルスはベッド脇の椅子に腰かけ、身を乗り出した。
「、わたしがわかるか」
腫れた頬に掌を添え、一方的にだったが視線を合わせた。
がゆっくりと瞬きをする。
その時、その瞳からは幾筋もの涙が溢れた。
「せん、せい……?」
「そうだ。、わたしだ」
「せんせい……スネイプ先生……」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、は彼の方へと腕を伸ばした。
縛られていた痕の他に、打ち身や傷が多数見られる彼女の腕を見て、セブルスの眉間の皺は一層深くなった。
ゆっくりと彼女を抱き起し、そのまま自分に身体を委ねさせた。
彼の低めの体温がゆっくりと伝わり、は嗚咽を漏らしながらゆっくりと呼吸を繰り返した。
セブルスは、乱れていた彼女の髪をやさしく撫で、落ち着くまでそのままでいた。
時々、屋敷での恐ろしいできごとを思い出し、小さく震えるだったが、その度にセブルスは彼女の背中をそっと擦った。
誰を、何を信じれば良いのかわからない。
ただ目の前のことを受け入れることしができない。
それでも、この戦いを終わらせなければならない。
胸の中で規則正しい寝息を立て始めた。
彼女を静かにベッドに戻し、その寝顔を見つめた。
傷跡の多さに頭を抱え、溜息をつく。
そこまでして、彼女が何を知っていたのだというのだ。
人を血で分ける我々の愚かなことよ。
彼女がまた目を覚ました時のためにお茶の用意をし、ローブを着込むと、セブルスは薬を煎じるために地下牢へと向かった。
彼の板挟み苦悩はまだ終わりそうもない。