s*m=sheep;


10

「準備はできたか」

「はい。今、丁度終えたところです」


初日の今日は早速、調合から始めることにした。
おできを治す簡単な薬を調合し、それが終わったら教科書をおさらいすることになっている。
その後も、調合、復習、という流れで夏休みを過ごすことに決めた。


「今日はの手際の良さを確認する。薬の出来は、当然、完璧であることが前提だ」

「…はい」


張りつめた研究室の空気に、の心臓は早くも速度を上げていた。
彼女は、些細なことにも緊張してしまう損な体質だった。
得意、不得意に関わらず、そうなってしまうのだ。


「先生、あの…」

「なんだ」

「初日ということで、定番の、言ってください」

「定番?」

「はい。緊張で心臓が爆発しそうなんですが、先生の詩を聞いたら落ち着けると思うんです……」

「……」

「たしか、栄光を醸造するとか、死にふたをするとか……」

「さっさと始めたまえ」


あっけなく却下されたは深呼吸をし、教科書を片手に机に並べた材料をもう一度確認した。
既に必要な分量は量り終えていて、そのままの状態で使うものと、手を加えるもの、火を通すものなどと分けて並べて置いた。
そして、頭の中で手順を整理すると、教科書を置いてローブを腕まくりし、ヘビの牙を砕き始めた。
その間、スネイプは少し離れたところで彼女の様子を観察している。
手には羊皮紙と羽根ペンを持ち、時折なにかメモをしている。
彼の羽根ペンがカリカリと微かに音を立てる度、の心臓はきゅっと縮み、彼女の胸を締め付けた。
材料を鍋に入れる頃には、の指先は夏だというのに冷水のように冷たくなり、感覚がなくなっていた。
それなのに、掌にはうっすらと汗がにじみ、なんとも滑りやすい状態だった。
鍋を火から降ろし、ヤマアラシの針を入れて混ぜ終えると、馴染むのを待つ間に試験管の準備に取り掛かった。
は持参していたケースから、試験管立てを取り出し、そこに試験管を並べていく。


「その様な道具を持っていたのか」


不意に、背後からスネイプが声を掛けた。
はそれに驚いて、持っていた試験管を手から滑らせてしまった。
パリン、と足元でクリスタルが割れる音がした。
鍋が降ろされた火が、割れたクリスタルをきらきらと照らしている。
は申し訳なさそうな表情でスネイプを振り返った。
魔法薬の調合には何の問題もないが、未成年ゆえに学校外での魔法が使えないため、自分で処理ができないのだ。


「そんな情けない顔をするな。試験管を割ったくらいで不手際などとは思わん」


今にも泣きそうな表情のにそう言って微笑むと、スネイプは杖を振って粉々に割れた試験管を元に戻し、試験管立てに挿しこんだ。


「……ありがとう、ございます」


お礼を言ってそそくさと鍋の元に戻り、全体がよく馴染んだのを確認すると、先程の試験管を手にし、ゆっくりと煎じ終えた薬を注いだ。
そして、お願いします、と告げるとそれをスネイプへ手渡した。


「……」


スネイプは、の方を見向きもせず、じっくりと試験管の中の薬を見つめる。
光に透かして見たり、試験管口を手で仰いで匂いを確認した。
その無言の間が、に何とも言えない緊張感を与える。
スネイプの口から何か言葉が発せられるのを今か今かと心待ちにしていた。


「十分だろう」

「……!」

「ただし、この様な簡単な調合で教科書を30回以上確認するのは効率が悪い」

「……」


しょんぼりと、俯く
緊張感は薄れたものの、スネイプの注意を受けてまた胸が痛くなった。
指導なのだから、注意や指摘をされることはわかっているはずなのに、どうも打たれ弱かった。
耳の奥でどくどくと脈打っているのが嫌というほど聞こえた。


、手首を出しなさい」

「…?」

「……」


は俯いていた顔を上げ、よくわからないまま腕まくりしたままの右手首を差し出した。
スネイプは左手で彼女の腕を支えると、反対の手で掌が見えるようにした。
彼の骨ばった長い指先を、の白くなめらかな手首に添える。
そして、暫しの間。


「まだ緊張しているのか」

「い、え…調合の時よりは……」

「……」

「せんせい……?」


スネイプは耳を疑った。
彼女の脈は、今でも通常の人より大分早い。
これでも緊張が緩い方だというなら、調合の時のそれは随分なものだったのだろう。
それなら、教科書の確認回数や、試験管の破損に納得がいった。


「少し休憩するといい。暫くしたらまたここに来る」


捲くったままだったのローブを元に戻し、支えていた腕を放すと、スネイプは調合用の机とは別のテーブルに杖を向けて一振りすると、さっさと研究室から出て行った。
彼が出て行ったあと、テーブルを見ると、そこにはグラスを満たしている飲み物が置いてあった。
ぱちぱちと小さな泡が弾け、太陽と同じ色をしたレモンスカッシュだ。
は、研究室に入って初めて表情を和らげた。


やっぱり、先生はやさしい人なんだな


そんなことを思いながら、は片方だけ下ろされたローブの袖を見つめた。
そして、手を綺麗に洗うとローブを脱いで軽く伸びをした。
緊張はすっかり解けたようだった。
もう一度スネイプの出て行った扉を見つめ、ひとり小さく微笑むと、椅子を引いてそこに腰かけグラスに口をつけた。
喉を潤すレモンスカッシュ。
その爽やかな香りで、日差しの届かない研究室に夏がやってきたような気がした。