夕暮れ時、西日の差すリビングに、は佇んでいた。
沈みかけている太陽だったが、まだまだ日差しは強かった。
「先生、前から気になっていたんですけど」
視線は夕焼け空を捉えたまま、彼女はキッチンにいるであろうスネイプスに話を振った。
それに気付いた彼は、作業の手を止め眉をひそめる。
魔法薬学関連の話題ではないことの察しはついていたので、ことばは発せず無言のまま続きを待った。
「ここからちょっとだけ見える、あの……工場、ですか?あそこに行ってみたいです」
やはり、また突拍子のないことを言い出した。
の発言によるスネイプの溜め息は最早日常化し、最初こそ恐縮していた彼女も、もう動じなくなっていた。
「言っておくが、あれは随分昔に閉鎖された廃工場だぞ」
「はい」
「そんなものを見てどうする」
「退廃的な雰囲気に酔いしれます。きっと先生にお似合いですよ!」
憎まれ口を叩きよって、との方を見ると、自分の言っていることを信じて疑いもしない朗らかな表情だった。
確かに学校での黒装束なら陰気臭い廃墟に調和しそうだが、それを悪気なく素晴らしいことのように言うにはスネイプも拍子抜けである。
もし無下に扱ったりすれば、拗ねた彼女が容易に想像できた。
兎に角、彼女は本気で例の廃工場に行きたいらしい。
「先生、行きたいです」
「駄目だ。危険が伴う」
「こんなに近所なのに…」
「人体に悪影響のある残留物があったり毒虫がいるかもしれない。何かの事件に巻き込まれる可能性もある。浅はかな気持ちで近づいて良い場所ではないことくらい、ならわかるだろう」
強い口調ではなかったが、諭すように言うスネイプに、は大人しく頷いた。
彼の言うことを理解はしたが、それでも小さく口を尖らせながら名残惜しそうに外を見る彼女に、スネイプは再度溜め息をつく。
「……明日の午前中なら付き合う」
「え」
「但し、外から見るだけだ」
魔法の使えない彼女ひとりでは不安だったが、自分が付き添っていれば無茶をすることもないと判断し、中には絶対に入らないと釘を刺してのことだった。
「先生、ありがとうございます」
「見るだけなら構わん……」
カーテンを閉めて礼を述べるから目を逸らすと、彼は腕を捲くってキッチンへと姿を消す。
の方は、付き添うと言ってくれた彼の厚意を嬉しく思い、足取りも軽く2階の部屋へと戻っていった。
翌朝、いつもより少し早く目が覚めたは、身支度をして部屋を出た。
リビングにはスネイプの姿が。
日刊預言者新聞を読みながらソファに腰掛けていた。
「おはようございます」
「ああ。こういう時は早起きだな」
「楽しみで……目が覚めてしまいました」
彼女の単純さに、スネイプは表情を緩める。
そして、トーストと簡単なサラダ、紅茶をお腹に収めると、二人は川沿いの廃工場を目指した。
袋小路から出ると、川はすぐそこにあった。
周囲の建物が朽ち果てたままになっているところを見ると、どこの工場も稼働はしていないようで、川もそれほど汚れているようには見えなかった。
そのまま川の上流へと歩いていく。
まだ早い時間のそこは人気がない。
「もうすぐ新学期ですね」
「そうだな」
「厳しい先生のお陰で勉強がとても捗りました」
そう言ったに、スネイプは口角を上げた。
今の発言のどこが笑いどころなのかさっぱりわからないはきょとんとした表情で彼を見つめた。
そして、慌ててはっとする。
「せ、先生!今、厄介なことからやっと解放されるって思って笑ったんですよね!?」
騒々しく言う彼女に、今度はスネイプが訝しげに表情を歪めた。
「被害妄想も甚だしい。わたしが可笑しいと思ったのはお前が自分から個別指導を願い出たにも関わらず、この夏季休暇で終了するかのような口ぶりだったからからだ」
「……」
「最も、これで終わりにすると言うなら話は別だがな」
「そんなことないです!勉強と言ってもまだ基本だけしかやってないですし!……ただ」
威勢良く反論したと思えば、急に語気が弱まった。
規則的に進む足元を見つめて俯いたまま、中々その先を言おうとしない。
「なんだ」
先を促すスネイプのことばに、は少し後ろめたそうな様子で口を開いた。
「学校が始まったら先生もさらに忙しくなるだろうし、その……今みたいに勉強以外のことに構ってもらえないんだなあと思いまして……」
昨日、廃工場行きを禁じられた時のように、は口を尖らせると、恥ずかしそうに川の方に顔を背けた。
小さな子どもがとるような態度にスネイプは悪態をつくわけでもなく、彼女の予想以上に幼い部分を目にして目尻を下げた。
当然それをが見ているわけでもなく、何も言わない彼に不安を抱き、気配だけで様子を伺った。
「能力は元より、始めからやる気のない生徒の指導はわたしにとって苦痛の他ならない」
淡々と話し出したスネイプは学校での彼と同じだった。
教員の表情をしている。
次に何を言われるのか、は手に汗を握って緊張に耐えた。
「の意気込みは理解したつもりだ。それらを維持する気があるなら、接し方を変えるつもりはない」
そう言ってを見るスネイプに、彼女は一層握り拳を固くした。
穏やかな表情で彼はそう言ったのだ。
以前の関係だったらきっと気づかない。
いつもと変わらない無表情の魔法薬学教授に見えていただろう。
しかし、この夏休みを共に過ごし、彼の感情とその現れが何と無くだがわかるようになった。
そして、今の彼は瞳に温もりを宿し、とても優しい表情をしていたのだ。
「先生……」
ただ怖くて厳しいだけの存在だった今までとは違ってその理由がわかり、彼の人間性がせっかく把握できたというのに、新学期の始まりによってそれが振り出しに戻り、もう距離が縮まらないのではないかと思案していたにとって、彼のことばによりそれは杞憂に終わった。
自然と、彼女の体から強張りは消えていた。
「、家から見える工場はあれだ」
「あ!」
前を向いたスネイプが指差す方を振り返ると、生い茂った木の合間から目的の建物が見えた。
川沿いの道から脇に逸れると、いよいよ工場はすぐそこまで迫っていた。
周囲の木が徐々に少なくなり、やがて開けた所に出たと思ったら、そこから工場が一望できた。
はそれをゆっくりと見渡す。
「意外と大きいですね……」
「そうだな」
従来は綺麗な銀色だったに違いない壁面を走るパイプは赤茶色の錆に覆われ、外付けの非常階段は劣化して今にも落ちてきそうだった。
工場に隣接している倉庫のような小屋には、ガラスの割れた窓が規則的に並んでいる。
剥き出しの骨組みや鉄筋が危険を示唆しているようで、それによって人を、もしかしたら動物をも遠ざけているのかもしれない。
そのような生き物の気配を感じないこの場所は静まり返っていて、非日常を感じさせた。
無機物の塊である工場の所々に草木が侵食している様は、役目を終えたそれが自ら自然に還ろうとしているようにも見える。
「この景観をバックに先生が立ったら、とても素敵な写真が撮れると思います」
「……」
さっきまでの表情が嘘のように、もう彼の眉間には深い皺が刻まれている。
いつものようにに呆れ、溜息をついた。
「建物の周り、一周していいですか?」
「ああ、好きにしろ」
「カメラを持ってくるべきでしたね……生憎、うちにはマグル製のしかありませんが」
工場を見上げたり、ガラスのない窓から中の様子を伺ったり、はあちこち散策していた。
その少し後ろを、スネイプがゆっくりとした足取りで追う。
「」
「はい」
やや離れたところからスネイプが声をかけた。
「今日の昼食はダイアゴン横丁でも構わないか」
「はい!外食は久しぶりですね」
「薬品も調達したいものがある。誰かが盛大にぶちまけてくれたからな」
「……すみません」
しばらく工場の周りを歩くと気が済んだのか、がスネイプの元に駆け寄った。
「そろそろ出かけましょうか」
「もういいのか」
「はい、先生と近くで見ることができて満足です」
嬉しそうに笑うにスネイプは小さく頷いた。
そして、念のため木の陰まで移動して姿くらましを行う。
スネイプの腕をしっかりと掴み、は深呼吸をした。
「準備はいいか」
「はい、……あの」
「話は後だ」
「わ……!」
の息を呑む声がしたと思ったら、そこにはもう二人の姿はなかった。
風が葉を揺らす音と、遠くで小鳥のさえずる声が微かに聞こえている。
再び静寂を取り戻した廃工場が夏の太陽に照らされていた。